審査員長 桂由美インタビュー

現代を生きる日本の女性の感性を大切にし、
世界へ羽ばたいていってほしいと願っています。

インタビューアー ダマ奈津子
取材・写真編集部

50年前に東京の赤坂・一ツ木通りの店からスタートし、今や世界のブライダルファッションデザイナー、そしてブライダル事業の経営者として活躍する桂由美さん。世界20カ国以上でショーを展開してきた。2010年には、全米ブライダルコンサルタント協会から世界で4人のみの名誉会員の称号を授与された。お忙しいなか乃木坂の桂由美ブライダルハウスで時間を取っていただき、今までの道のり、今後の展望、これからの人たちへのメッセージなど、お話を伺った。

なんとか役に立ちたいという思いで始めた
-いまや世界的に活躍する桂さんですが、まずは、ウエディングドレス専門の事業を手がけたきっかけを教えてください。

 和装婚がほとんどでウエディドレスを着る方が3パーセントしかいなかった50年前の日本で、先を見越し、ウエディングドレス専門の事業を手がけたパイオニアなどと紹介されることが多いのですが、実は、その3パーセントの方々が気の毒で、何とか役に立ちたいと社会事業のつもりで始めたというのが本当のところです。最初の10年間はビジネスになりませんでしたし、起業家として始めていたら、きっと長続きはしなかったでしょう。

-そうですか。何とか役に立ちたいという想いで続けられたんですね。

 ブライダルの仕事をしたいと思い始めたのは、母が経営する洋裁学校で講師をしているときでした。ウエディングドレスを卒業制作の課題にしたものの、どの生地屋にもウエディングドレス用の広幅の生地やレースの種類がない。白い靴もアクセサリーも、ブーケを作る花屋さえもなかったので、何もかも自分たちで準備しなくてはなりませんでした。ウエディングドレスを着るという夢をかなえるために、花嫁がたいへんな思いをしなくてはならないことを実感したのです。

-今では考えられませんが、大変な時代だったんですね。

 その後、留学を決意し、1年かけて世界各国のブライダル事業を調べ歩き、そのなかで自分がするべきことの構想がまとまってきました。例えばブライダルの勉強をしようと思ったときに参考にする本が一冊もない。やむなく海外の書籍を翻訳に出してひも解いたことから、「ブライダルの参考書を書く」ことや、欧米を視察したときに婚礼衣装の売り場が男女別なのを見て「私だったら男女一緒の売り場にする」と思ったり。ほかにも「ブライダル協会を作って全国に私の分身を作る」「花のアレンジメントの開発が必要」といった溢れる想いを、すべて手帳に書き込んでいきました。

手帳に記した一つひとつを実現してきた
-最初の10年間はどのようなライフスタイルだったのですか?

 1964年、赤坂に店をオープンして1年目にドレスを製作し、販売したお客様は年間30名ほどでした。店にはもっと多くの方々が足を運んでくださいましたが、当時は花嫁のお母様やお姑様から「着物でないといけない」と反対される方も多かったのです。当然、一年半ぐらいは赤字でした。2、3年目は、5名のスタッフの給料を払い、生地を仕入れると私の取り分が無いという状態でしたので、週に3日母の学校で、午前、午後、夜間と生徒を教え、夜10時を過ぎたころに赤坂の店に戻りました。学校で教えていたときには学校に住み、赤坂に店を開いてからは店に、現在の南青山の店でも上の階に住んでいました。学校で教えることで、そこから給料をもらい、店に住むことで住居費を節約して店と学校を両立していたのです。振り返ると、先の手帳に記した一つひとつを実現してきたのが、私の人生なのだと思います。

-先生からみて世界で成功するために必要なことは何だと思われますか?

 一つは「未来志向」の仕事をすること。ブランドを永久に続けていくためには、当然デザイナーは変わっていくものですから。現在、オートクチュール以外のウエディングドレスは、若いデザイナーにどんどん任せています。自分のポジションをクリエイティブ・ディレクターと位置づけて、各デザイナーから上がってくるデザインで「ユミカツラ的ではないな」と思うところを直していくことが役目です。そして、売れるかどうかはわからないけれども挑戦していく「未来志向」の仕事、これこそ私自身がデザインしなければならないことだと思っています。

-「未来志向」、先生らしいですね。他にはありますか?

 やはり、何もかも一人ではできませんから、協力者も必要です。「創る」ということはお金だけで解決できることではありません。お金がたくさんあるから新しいドレスを作ってください、といわれて創るものではないと思うのです。自分の損得にかかわらず新しい物の開発のために協力しますよと言ってくださる人たちの情熱がないと実現できないことが数多くあるのです。10年前、和紙のドレスを手掛けた時も越前和紙の工房がまったく新しい試みに我々と一緒に取り組んでくれたから「和紙を超えた和紙」の『WASHI MODE―ワシモード』が誕生したのです。

新しい世界へのチャレンジに燃えている
-新しい世界への挑戦ですね。

皆新しい世界へのチャレンジに燃えています。オートクチュールのドレスを一つ作るには1着何百万円もかかります。高い費用を払えば、お金の魅力でやってくれる人は数多くいますが、そこから人々を感動させる作品は生まれません。「一緒に新しいものを作りましょうよ」とおっしゃってくださる方がクリエイティブな世界にはどうしても必要なのです。

-それから、先生は家庭を大切にされていましたね。

 はい、もう一つ、家庭をしっかりさせておくことも大切です。私は歳の声を聞く頃に、仕事だけでの人生ではいけないかも知れないと感じ結婚を考え始め、40歳で結婚しました。友人や仕事の関係者には話せない、いろいろな悩みを打ち明けることができる、絶対的な味方がいるということが私の仕事の自信を強くしてくれたと思っています。実際、精神的な心の安定は何よりも強い味方でした。家庭といっても、夫婦に限らず、ご両親であっても親戚であっても、心の支えとなる家族の存在があってこそ、クリエーターとしてより力が発揮できると思うのです。

-最後に、日本の輝ける女性たちにメッセージをお願いします。

 世界が一つになっていくということは、各国のもつ良さや悪さが平均化されていくことでもあります。日本が遅れていた男女平等問題などは改善されつつありますが、いま、日本女性の美徳である、良い意味での謙虚さや、慎ましさがなくなってきたことは問題だと思います。私は着物の優美な後ろ姿にアイデアを得て「由美ライン」と呼ばれる独自の、ラインや、現代的な工夫をしながらもドレスに匹敵する新しい着物の提案を続けていますが、皆さんにも日本独特のもの、日本の伝統から見出される美しさを、現代を生きる日本の女性の感性で大切に受け止め、表現し、世界へ羽ばたいていってほしいと願っています。

-本日はお忙しいなか有難うございました。

東京生まれ。
共立女子大学被服学科卒業後、パリに留学。1964年日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動開始。
日本のブライダルファッション界の第一人者であり、草分け的存在。
美しいブライダルシーンの創造者として世界20カ国以上の各国首都でショーを行い、そのブライダルイベントを通じてウエディングに対する夢を与え続け、ブライダルの伝道師とも言われている。
93 年外務大臣表彰を受賞。
96 年には中国より新時代婚礼服飾文化賞が授与される。
99 年東洋人初のイタリアファッション協会正会員となり、2003年以降は毎年パリでオートクチュールコレクション開催。
05 年7月、YUMI KATSURA PARIS店をパリのカンボン通りシャネル本店前にオープンし、11年秋ニューヨークでライセンス契約での再デビュー果たすなど世界的な創作活動を展開している。

1964
-赤坂・一ツ木通りに日本初のブライダル総合専門店オープン。
1965
-日本初のブライダルファッションショー開催。
1968
-日本初のブライダル専門書『ブライダルブック』を出版。
1969
-スペシャリスト養成のため全日本ブライダル協会設立。
1973
-南青山・ 乃木坂に桂由美ブライダルハウスオープン。
1986
-中国へ進出。北京において、中国初のブライダルファッションショー開催。
1991
-ヨーロピアンエクセレンス協会より「トライアンフ大賞」受賞。
1993
-前ローマ法王に、イースター祭服デザイン、献上。 「外務大臣表彰受賞」。
1995
-アジア各国の婚礼文化及び婚礼衣装の伝統を次の世代に継承するための、アジアブライダルサミットを主催し、以後毎年開催。
1999
-東洋人デザイナーとして初めて、イタリアファッション協会正会員となり、 ローマオートクチュールコレクションに参加。
2001
シャネル、アルマーニ、ミッソーニなどと共にスペイン広場のショーに出演し、ラストを飾る。
2003
春夏パリオートクチュールコレクション初参加。以後毎年参加。
2005
パリ・カンボン通りのシャネル本店前にパリ店オープン。
2006
Newsweek『世界が認めた日本女性 100 人』の一人に皇太子妃・雅子妃殿下はじめ、緒方貞子さん、黒柳徹子さんらとともに選出。
2009
桂由美創作活動45周年を記念し 「桂由美×假屋崎省吾 美の饗宴」 を 8 月日本橋三越本店、9 月そごう千葉店にて開催。
2010
全米ブライダルコンサルタント協会から世界で 4 人のみの名誉会員の称号を授与。

公式ホームページ:www.yumikatsura.com

 

1965
20 歳で上京し、英会話学校を経営し成功する。
1981
公開異人館「アメリカンハウス」オープン。
1982
公開異人館「ペルシャ館」オープン。
1983
コンテナハウスを利用した北野町ミニ FM 局開設。
1984
会員制レストラン「カサブランカ」オープン。
1984
ペルシャ館にて、シルクロードファッションショー開催。
1985
映画異人館「ハリウッドスターウェイ」オープン。桂由美さんとの共同宣言で北野町は、ブライダルビレッジの名乗りをあげる。その後はプロデューサーとして公開異人館の経営に着手。北野町のブームを引き起こす。
1989
日本初テディベアの異人館「ハニーベアワンダーランド」オープン。
「国際花と緑の博覧会」に於いてのウェディングチャーチプロデューサーとして活躍。
1992
毎日新聞社毎日ビジネスサロン代表幹事に就任。
1995
大阪ワールドトレードセンター WTCO CLUB 総支配人就任。
1995
防災の日(9・1)に設立された日本初、民間による「日本レスキュー協会」の発起人として会長に就任。
1996
旧サッスーン邸“BRIDAL FANTASY”オープン ガーデンウェディングスタート。
1997
展示館「KOBE ミュージックアベニュー」オープン。
2001~
ラジオのパーソナリティを担当する。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌(アエラ、フライディなど)さまざまなマスメディアに取り上げられ、朝日新聞では「であい」というタイトルで連載。その多彩ぶりも発揮。事業経験と幅広い人脈を通して企業間コーディネート、イベントプロデュースなどを行なっている。
市町村、事業体、大学、女性起業家の会等で講演活動も精力的に行なっている。
現在は、経営者のための「ダマ塾」を主催し若手経営者の支援、育成を行なっている。